前回に続いて、私の「初めての相続」について、父をテーマに私小説風に回想します。
それは平成3年の夏の終わりのことでした。
いちばん長い一日
平成3年8月25日は、私にとって「いちばん長い一日」になりました。
日付が変わった深夜、父を看取ったそのときから多くのことが頭の中を駆け巡ります。
母も2人の妹も現実を受け入れ気丈に振る舞っています。自分も長男として何をすればいいのか、整理します。
今ならスマホで段取りを検索することが出来ますが、当時は何も調べるすべがありません。当然予習などしていませんから、唯々手探りで思いつくままに手を付けていきます。
親戚への連絡、知人への連絡、友人への連絡、会社への連絡・・・気付けば日が高くなっていました。
葬儀社との打合せの中で、「家紋」の確認が必要でした。家紋などそれまで意識したこともありませんでしたから、どのように調べればよいのかわかりません。我が家が何宗なのかも意識したことがありません。唯一知っていそうな父はもういません。
山口のお寺に電話をすると、住職も驚いておりました。本来なら家族そろって参列する法要の当日のことですから、塔婆を用意して準備していたことでしょう。その法要の施主本人が亡くなった連絡ですから、ちゃんと伝わるのに多少時間がかかりました。
何度かのやり取りをして、宗派、家紋を確認することができました。
そして、戒名が必要なこともそのとき初めて知りました。戒名料が必要なこともランクによって戒名料が違うことも、何も知りませんでした。
その後の怒濤のような段取りの打合せをこなしていくうちに、父が亡くなったという現実から逃れていく気持ちになっていました。
親戚の助けもあり、一つ一つの「イベント」の目途がついていきます。
葬儀会場
お通夜、葬式
参列者への告知
精進落とし、返礼品
火葬の手配
冠婚であれば数ヶ月かけて準備するものですが、葬祭ではほんの数時間で決めていくのです。金銭感覚は麻痺し、冷静を装いつつも頭がついていかない中、私のいちばん長い一日は例えようのない焦燥感とともに、過ぎていきました。
お通夜と葬儀
今では家族葬が主流ですが、平成3年当時はまだバブルの名残がありました。府中駅前で不動産業を営んでいた父をしっかりと見送ってあげたいという気持ちで、残された家族が選んだのは「立派な葬式」でした。
「立派な葬式」のために、私たち兄妹の勤め先の会社の人たちやクラスメイトが、駅から会場までの道案内、受付、会場整備などを手伝ってくれました。
お通夜には、父の仕事関係の方々や知人、同級生など多くのかたに参列していただきました。
夜も深まり一通りの挨拶が終わったころ、私の小学校時代の仲間、中学、高校、大学の友人も集まってくれて、いつしか同窓会のようになっていました。
父は私が小4から小6までのあいだ、野球チームの監督を引き受けてくれていたので、小学校時代の仲間にとっては、私の父であると同時に一緒に少年時代を過ごした監督でもありました。私の寂しい気持ちをいっときでも忘れさせてくれるように、深夜まで付き合ってくれた友人たちに感謝でいっぱいです。
自宅へ
翌日、火葬され小さな骨壺に収められ自宅に戻ります。
それまで部屋の大部分を占拠していたお棺が片付けられ、祭壇だけになった部屋を眺めながら感じたこと。
もっともっと酒を酌み交わし大人の話しをしたかった社会人になって2年目の私にとって、これまでの父がいた25年を振り返り、これからの父がいない世界では、もう甘えられる安心感はないのだろうという思いをぼんやりと感じていました。
さいごに
父のいない世界を残された家族でスタートするために、母との距離や妹との距離が今まで以上に急激に近くなりました。
この数日のあまりにも衝撃的な「イベント」がひと段落着いた次に待っているのは、「相続」です。
次回は最終回、「初めての相続」について回想したいと思います。