私の亡き父は山口県萩の出身で、かの高杉晋作や坂本龍馬も剣術をしたとされる長州萩の「明倫館」で柔道をした話しを、幼い頃から聞かされたものでした。その影響もあって、今でも長州を舞台とする幕末史が好きです。
今回は、幕末の志士が残した辞世の句に想いを馳せてみます。
幕末と松下村塾
数年前に世界文化遺産に指定された、山口県萩市にある松下村塾は吉田松陰が多くの幕末の志士を育てた私塾です。
幕末の思想家であり教育者である吉田松陰の教えがその後の日本の歴史を大きく変えていく原動力となっていきました。
その門下生は、高杉晋作、久坂玄瑞を筆頭に、明治維新によって新政府の首脳となった伊藤博文(初代内閣総理大臣)、山縣有朋(初代内務大臣)、山田顕義(初代司法大臣)など多くの偉人が名を連ねます。
その筆頭門下生であった高杉晋作の辞世の句、そして吉田松陰の辞世の句は当時の歴史背景と相まってとても意味深く、私にとって幕末への想いを強くするものです。
辞世の句とは
辞世の句とは、死を予見したときや死に際に自らの人生を総括して詠む想いです。そのひとの死生観であり、まさしく最期の句です。
死に向かって遺す言葉として、遺言と似ていますが、やはり別物です。
遺言は、遺される人のためのものです。
辞世の句は、その人自身の想いです。
遺言作成サポートで「付言」を遺言書に綴ることがありますが、この付言事項が辞世の句に近いのかも知れません。
高杉晋作
高杉晋作は、久坂玄瑞とともに「松門の双璧」と呼ばれ、吉田松陰からその才能は高く評価された人物です。
「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し」と評され、「奇兵隊」を結成しました。
奇兵隊は当時の身分制度にとらわれない初めての軍隊であり、高杉の統率力で長州藩が倒幕に向けて幕府と戦うことになるのです。
その高杉も肺結核を煩い、下関で療養生活に入り幕府が倒れるのを見ることなく、27歳で生涯を終えました。
これが辞世の句です。
「おもしろきなき世をおもしろく」ここまで詠んで力尽きたとされています。
「面白いことのない世の中を、自分がおもしろくしてやろう」と解釈されることが多いです。後に女流歌人の野村望東尼によって「住みなすものは心なりけり」という下の句が添えられました。
つなげると、「世の中を面白く思うかどうかは、その人の心次第だ」とも受け取れます。
幕末の混沌とした世を全速力で生き抜いた高杉の想いは、現代でも日々面白く過ごしたいと思うことと通じる気がします。
「おもしろきなき世をおもしろく、住みなすものは心なりけり」
吉田松陰
松陰先生は私が尊敬する歴史上の人物のひとりです。伝記、紀行文、解説書、実に多くの書籍を読みあさりました。
享年30歳、安政の大獄で処刑されるまで、家族に師に弟子に宛てた手紙や文献がたくさん残されています。
その中で、弟子に宛てた辞世の句と親に宛てた辞世の句は胸を打ちます。
「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置まし大和魂」
これは安政の大獄によって江戸小伝馬町で処刑される前日に書き上げた「留魂録」の冒頭部分です。留魂録は、松下村塾の門下生に宛てた遺書であり、この書を読んだ門下生が明治維新にむけて動き出すことになります。
「この身が武蔵野の地で処刑され命果てても、私の思想は生き続ける」という想い。しっかりと門下生に届いています。
「親思ふ心にまさる親心 けふの音づれ何ときくらん」
これは、江戸で処刑される1週間ほど前に長州萩の両親に宛てて書いた手紙のなかの短歌です。
「自分が親のことを思う以上に親が自分のことを思う気持ちは強いものだ。今日のこの知らせをどのように受け止めているのだろうか」という想い。
子が親を想う気持ち、親が子を想う気持ち。両方の立場からこの想いが分かる年齢になりました。
さいごに
今年の8月は亡き父の三十三回忌です。いつの間にか父の年齢を超えました。コロナ過もあり、なかなか気軽に行けなかった山口の片田舎のお寺。久しぶりの墓参で、あらためて両親に感謝を伝えたいと想います。