8月25日は父の命日です。この週末は三十三回忌の法要で山口を訪れました。
いつの間にか父を超える年齢となり、父と過ごした年月よりも父がいない年月が長くなりました。
今回から前編、中編、後編と3回に分けて父をテーマに私小説風に回想してみます。
平成3年8月山口へ・・
父から、今度家族で山口のお寺に行くと聞かされたのは25歳になったばかりの平成3年の梅雨明けの頃でした。父の生まれ故郷である山口に家族で訪れるのは高校生のとき以来です。祖父の法要とお墓の整備を兼ねての帰省になります。祖父は39歳で亡くなったと聞いていますから、当然私は会ったことがありません。
東京から遠方ということもあって山口のお墓には無頓着だった父もさすがに55歳になって気になりだしたのでしょうか。兄弟のいない父にとってこの帰省の目的は「お墓をちゃんとする」ことでした。
この帰省は、8月の最後の週末の予定です。当時入社2年目の私は会社の独身寮にいましたから、寝台特急のチケットを実家から送ってもらって東京駅で家族と落ち合うことにしていました。
山口帰省の中止
出発当日の8月23日(金)は、東京駅19時20分出発の寝台特急のため、会社からそのまま東京駅に向かうつもりで、2泊分の荷物をスーツケースに詰めて出社しました。
母から会社に電話があったのは、その日の昼過ぎでした。「お父さんの体調が良くないので、山口は中止にするから電車のチケットは払い戻しして」と。
平成3年8月24日
その日は、実家と病院を何度か往復することになりました。入院に必要な物や着替えなどの準備のためです。
父が緊急入院することとなったのです。家族にとって入院は非日常の大事件です。
母に聞くと、数日前から調子が良くなかったので夏バテかと思って安静にしていたのだが、吐血したので慌てて救急車を呼んだようです。
病室に入ると父が点滴を打ちながら、「予定していたのに、悪いなー」と元気なさげで血色も良くなく、心配です。
もともと血圧が高く通院していた病院でした。血液や尿の検査の結果を受けて主治医の話しを聞くと、安心できない状況だとすぐに理解しました。
喉が渇いたと水を要求する父。医者から水を飲ませてはいけないと言われていたため、氷を口に含ませたりしながら家族で元気付けます。
夜には、親戚もお見舞いに来てくれて近くのファミレスで食事をしましたが、私たち家族は病院に泊まることにしました。
病院が簡易ベッドを用意してくれて、家族交代で仮眠をします。
平成3年8月25日深夜
日付が変わり、深夜になると父の意識はなくなり、病室に医師や看護師の出入りが多くなります。
私たち家族はモニターに表示される血圧、脈、心電図の波形をただ見守るだけです。直感的に今夜が山なのだと意識しました。
その後どのくらい時間が経ったのか覚えていませんが、ベッドの上で父が眠るように目の前に横たわっていました。
さっきまで会話していた父と二度と話しをすることが出来ないことの寂しさと悔しさで涙が止まらない25歳の夏の終わりの出来事でした。
さいごに
家族での山口帰省を予定していたはずだったその日、父との別れは突然でした。あまりにも急で頭の中がついていきません。
次回は私にとって「いちばん長い一日」、そして「初めての相続」について回想したいと思います。